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エッセイSP(スペシャル)

開拓者・鈴木銃太郎

吉田 政勝

2012年10月29日

 図書館で「鈴木銃太郎日記」を読んでいると祖父の名前が載っていて驚いた。百年ほど前に祖父中島和一郎と鈴木銃太郎が交流していたのだった。
 鈴木銃太郎は明治十五年に依田勉三とともに、開拓適地を求めてオベリベリ(帯広)にたどり着いたが、勉三は伊豆に帰り、銃太郎のみが残って越冬した。翌年の五月に、晩成社の十三戸がやってきて開墾を始めたが、七月は蚊やブユが大発生してほとんどの移民たちが蚊の媒介によるマラリアにかかり畑作業どころではなくなり、八月はトノサマバッタの大群が襲ってきて、作物は壊滅にひとしい状態だった。耕作者たちの士気はますます低下し、無断でよそに出かける者が出たり、勉三たちに苦情を持ち込んでくる者たちもいた。勉三と銃太郎などの幹部たちも開拓事業をめぐって意見が衝突した。
 晩成社が入植後の四年目の明治十九年の五月に、三十歳の銃太郎は、シブサラの酋長といわれていたサンケモッテの娘コカトアン(常盤と改名)と結婚すると決まった。
 かねがね会社の改革を口にしていた銃太郎は、勉三と意見が対立して軋むより、それぞれが発奮できる土地で再出発の道を選ぶような方向に傾きだしていた。
 明治十九年の早春に、銃太郎は、渡辺勝と宮崎濁卑とともに帯広から十勝川をさかのぼった。十勝川から上陸し、梢の向こうに十勝川左岸に広がるシブサラ(芽室西士狩)の草原地帯を発見した。
 銃太郎らの西士狩開墾の始動は、明治十九年六月で、銃太郎と高橋利八が実際に居を西士狩に移したのが明治二十二年早春だった。
 私の祖父、中島和一郎と鈴木銃太郎が交流していたのが、西士狩開墾後に移住した下美生時代だ。銃太郎日記によると、明治三十五年二月、校舎は中島組請負となり建築費総計百五十円とす、と記述あり。翌年の四月、鈴木銃太郎は「長女美世の美生校卒業授与式に参列し式が終わって中島組長などと酌む」とある。 
 翌年の二月には「采薪、中島和一郎来る」とある。薪の売買で関係があったと思える。その際、銃太郎所有のカンナ台一枚と突きノミ一丁譲る、とあり代金四十銭と記されている。
 私の父親太郎の戸籍を見ると、明治四十四年二月一日河西郡芽室村大字美生村南二線西百二十六番地で出生となっている。中島和一郎の妻がみつい、父はその三男である。中島和一郎は妻みついと離婚して、みついは吉田姓に戻った。
 私の母から聞いた話では、離婚したその後、中島和一郎はどうなったか。住宅需要があったのか、樺太へ渡ったという。晩年は、健康をそこない芽室に帰ってきて、みついとの復縁を望んだが、拒絶されたという。銃太郎日記が、祖父中島和一郎の存在を浮き立たせてくれた。

 

◎プロフィール

 文化の日に芽室の開拓者・鈴木銃太郎家と渡辺勝家の末裔の方々が集い、偉大な先覚者を偲びます。私も企画を先導するひとりです。

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